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福岡家庭裁判所 昭和46年(家)1340号 審判 1971年12月23日

申立人 沼田ヨシ子(仮名)

相手方 沼田徹(仮名) 外一名

主文

申立人の本件申立を却下する。

理由

1  本件申立の要旨

申立人は、相手方らは申立人に対し扶養料として昭和四五年六月から毎月各金一万円を支払わなければならないとの審判を求める旨申立て、申立の実情として、申立人は昭和七年頃申立外沼田文男と事実上婚姻して同棲し、昭和二一年三月一日届出をして正式に婚姻したが、相手方徹は右文男とその先妻かねとの間の長男、相手方嘉寿雄は同じく二男である。申立人の夫文男は昭和三八年一〇月一〇日病死し、申立人は現在単身生活しているが、当年満七一歳の高齢で且つ資産もなく、自己の財産または労務により生活を維持することができないので、相手方らに対し扶養料の支払を求めるため、本件申立に及ぶと述べた。

2  事件の経過

申立人は昭和四五年六月三日当庁に扶養調停申立(昭和四五年(家イ)第四八六号事件)をなし昭和四五年一二月二日午前一〇時と、同年一二月一一日午後一時三〇分の前後二回にわたり調停期日が定められ、申立人に対し呼出がなされたが申立人は何れも出頭せず、調査官により事実の調査が行われたが昭和四六年九月一日調停成立の見込がないものと認められ、調停不成立とされ、本件審判手続に移行した。

3  当裁判所の判断

記録編綴の戸籍謄本三通、原戸籍謄本一通、除籍謄本一通、家庭裁判所調査官尾藤清一、同三宅英治、同野口督嗣の各調査報告書の各記載によれば、申立人が申立の実情として述べる事実の外次の事実を認めることができる。即ち

(1)  申立人と文男が昭和七年頃事実上婚姻した当時、文男は熊本県庁に奉職しており、当時相手方徹は小学校六年に、また相手方嘉寿雄は小学校二年に在学中であり、申立人は夫文男並びに相手方らと熊本市内で同居生活をはじめたが、その当時同人方には女中が雇入れてあつて日常の家事労働に当つていたところ、徹は昭和一六年中申立人らとは別居し、同年中に応召、昭和一七年暮召集解除となり、爾来独立して生活し昭和二〇年四月六日申立外沼田洋子と婚姻し、また相手方嘉寿雄は昭和一六年中に軍に徴用され、爾来申立人らとは別居し独立して生活することとなり、昭和二三年九月九日申立外加藤貴代子と婚姻し、次いで昭和二八年八月三日同人と離婚、更に昭和二八年一一月二〇日現在の妻雅子と婚姻した。

(2)  申立人はもともと美容師であるが、文男と事実上婚姻して同居した後もしばしば家を離れて、相手方らと離れて独自の生活行動をしたことがあつた。相手方徹は、申立人がかかる行動をした期間について、昭和一三年二月から同年一一月頃までの約一〇ヵ月間、ついで昭和一四年三月から同年一一月頃までの約九ヵ月間、更に昭和一五年三月頃から昭和一七年頃までの約二年間である旨を述べ、申立人自身も昭和一四年頃金儲けの目的で単身満洲国に渡り衣料品販売の事に従つたが、その事業は失敗に帰したことを認めている。ところで文男は昭和一八年中県庁を退職して退職金、恩給、小作料などにより生計を営んでいたが、終戦後申立人は美容院を経営するため熊本県内各地を転々として文男とともに居を移し、その間開業資金、運転資金などにあてるため文男所有の不動産の処分されたものもすくなくなかつたが、美容院の経営は何れも失敗に帰した。昭和三八年一〇月一〇日文男死亡後、申立人は相手方らに自己の所在を明らかにすることもなさず、申立人と相手方らとの間にはその後生活上の交渉はない。申立人は夫文男死亡後熊本市内で単身生計をたてていたが昭和四三年一〇月頃東京に赴き昭和四四年一二月福岡市に出て他家の手伝などをしていたが、歩行困難となつて自活できなくなつたので昭和四五年一月から生活保護法による生活扶助を受け、これと亡夫の遺族年金約金五万五、〇〇〇円で生活していたところ、昭和四五年六月三〇日から老人性痴呆の病名により福岡市○○△△番地所在の精神病院医療法人○○保養院に措置入院となつた。

申立人の判断能力について見るに、申立人の病状は妄想型で、被害妄想の症状を呈するが、その他の点については、調査官との面接においてその対話内容に一貫性があり、通常人と比較して判断能力が著しく低下しているとは見られない。

(3)  相手方らの家族、家計の状況等についてみるに、相手方徹は熊本県庁に勤務して給与月額約一〇万円を支給され、妻洋子(大正一一年一月二三日生)の外県庁勤務の長女操(昭和二〇年五月七日生)熊本大学在学中の二女由喜子(昭和二四年三月七日生)中学二年在学中の三女登志子(昭和三一年八月七日生)と同居して生計を維持しており、相手方嘉寿雄は農機具並びに電気製品の小売販売を業とし、その営業所得年間約八〇万円をあげて妻雅子(昭和三年一二月一三日生)高校二年在学中の長男明(昭和二九年二月二六日生)中学一年在学中の二男二郎(昭和三三年一月二三日生)と同居してその生計を維持しているところ、相手方両名の本件申立に対する意見として、申立人と相手方等との同居の期間は短かく、その間申立人は出奔すること数回に及ぶなどその間の申立人の生活態度には常識外れの行動が多く、育ての親としての好印象は残つておらず感謝する気持にはなれないと述べ、申立人を扶養することについて否定的消極的な意向を表明している。

(4)  ひるがえつて申立人と親族関係にあるその他のものについてみるに、(ア)民法第八七七条第一項所定のいわゆる絶対的扶養義務者として申立人の実弟申立外広田和男があり、更に(イ)同条第二項所定のいわゆる相対的扶養義務者に当るものとして、前記和男の長男順之助(昭和八年二月二三日生)二男嵩(昭和一〇年二月一日生)三男孝三郎(昭和一二年五月一〇日生)長女愛子(昭和一五年三月二八日生)及び六男六郎(昭和二〇年五月二六日生)らの外申立人の実弟亡広田重治の長女美代(昭和八年三月二八日生)二女志奈子(昭和一一年七月五日生)二男斉(昭和一三年一〇月二八日生)三男康(昭和一八年六月一七日生)らがある。

以上の事実を認めることができる。

ところで申立人と相手方両名とが民法第八七七条第二項所定の三親等内の親族関係にあるものであること、即ち相手方らが申立人に対し民法第八七七条第二項所定のいわゆる相対的扶養義務者であることはいうまでもない。而して前段(4)の(ア)において認定した絶対的扶養義務者である申立外広田和男が申立人を扶養する能力があるか否かは調査の現段階においては確定できない。然しながらたとえ右和男にその能力がなく、また(4)の(イ)において認定した相対的扶養義務者に、申立人の扶養義務を負わせる特別の事情を認めることができないとしても、前段認定の諸事情からすれば、申立人が夫文男並びに相手方らと同居していた期間中、特に苦労して家事に専念して一家の生計を助け、子供らを手塩にかけて育て上げたという事情の見るべきものがなく、相手方らとの同居の始期から終期までは約九年間とみられるが、その間にも申立人はしばしば家族らと離れて独自の行動をあえてしたものであり、しかもその同居の終つた時期からすでに三〇年の歳月が流れていることなどの諸点を彼此総合すれば、申立人の扶養の要求を相当であると判定するに足る顕著な対価的要因の存在することを肯定することは困難であるというの外はない。よつて相手方らに申立人の扶養義務を負わせるにつき特別の事情があるということはできないから、申立人の本件申立は理由のないものとしてこれを却下すべきものとし、主文の通り審判する。

(家事審判官 川淵幸雄)

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